本日は、天満宮についてお話させて頂きます!
天満宮と言う言葉は、皆様も比較的身近にある言葉ではないでしょうか?
今回は、知っているようで知っていないかもしれない天満宮に関して書かせて頂きます。
文章には、個人的見解も含まれますので、ご容赦下さい。
一般的には、菅原道真公をご神体としてお祀りしている神社を天満宮と言います。
大昔は、天皇、皇族を祀る神社の社号としての「天満宮」でしたが、菅原道真公の一件以来、天満宮=菅原道真公となったようです。
天満宮と同じ分類として、天神神社。菅原神社となります。
ですが、天神社は諸説あるようですので、wikiってください。
菅原道真公が学者の家の出であり、大変聡明な方であったため、特に学問の神様としてご存知の方も多いかと思います。
・太宰府天満宮
菅原道真公の墓所
・北野天満宮
朝廷の命により、菅原道真公を祀るために建立された。
この2社が総本社となります。
また、天満宮は三大天満宮と言われる括りがいくつも存在しています。
・日本三大天神
太宰府天満宮、北野天満宮、もう一社は諸説あり。
・日本三躰天神
永谷天満宮(横浜)、道明寺天満宮(大阪)、太宰府天満宮
・江戸三大天神
湯島天満宮、平河天満宮。亀戸天神社もしくは、五条天神社。
・関東三大天神
湯島天満宮、平河天満宮、谷保天満宮
・名古屋三大天神
上野天満宮、桜天神社、山田天満宮
・その他
町田三天神(東京)、福島三天神(大阪)周防の国三大天神(山口)などなど。
それでは、ここからは少しだけ掘り下げてお話させて頂きます。
まず、
菅原道真は、平安時代の貴族になります。
日本史に登場する人物として、その名前はご存知の方も多いのではないでしょうか?
道真公は学者の家の生まれであり、当時学者の家は、家格が低かくかったため政治の要職に就く事は、まずあり得ませんでした。
しかしながら、その才覚により、当時の宇多天皇の側近中の側近となり、政治のトップまで登りつめた人物です。
トップとは言え、この時には、珍しく、トップを二人置く体制となっており、菅原道真公の双璧として藤原時平公がいました。
藤原時平公は、藤原家の中心であり、当時、藤原家は名実ともに最高位の名家の出身。一方道真は、学者の家系であり、大変優秀な家計ではありましたが、当時の家格的には低いのが現実であり、政治の中心は、家格の高い人たちによって牛耳られているのが現実でした。
そのため、道真公は、家格の高いエリート達からのやっかみが混乱を招く事を良しとせず、出世の都度断りを入れていたほどの人格者でした。
しかしながら、その思い叶わず、断りの申し出をことごとく却下され藤原時平と肩を並べる地位にまで登りつめました。
ですが、突然大宰府に左遷されてしまい、その地で亡くなったしまった方ですね。
いわゆる、昌泰の変(しょうたいのへん)ですね。
簡単に言いますと、
当時は藤原氏が全盛期。
天皇をも決めるほどの力を持っていて、菅原道真のライバルがこの藤原時平でした。
そのライバルに政治で負けてしまい、そのことにより、道真は突然当時の政治の最高位を解任されて大宰府へ左遷された事件の事です。
道真公を寵愛した宇多天皇が上皇となり、天皇は後醍醐天皇となりました。
宇多天皇は、もともと藤原氏の勢力拡大を憂いていて、時々にその勢力を縮小させようと努力していたようです。
そのため、上皇となる時にも後醍醐天皇の回りも宇多天皇の側近で固めるよう依頼していました。
つまり、実験は宇多上皇が変わらず握っていたと推測されます。
後醍醐天皇はその影響力を排除したかった。
時平公は道真公が邪魔であったことから利害関係が一致!
そこに飛んで火にいる夏の虫!
道真が宇多上皇に道真の身内の斉世親王を皇位一位するよう企てている!
との噂が広がります。
ここぞとばかりに、後醍醐天皇と時平が協力して、なんら証拠がないまま、その噂を真実として確定し、道真公が宇多上皇をそそのかしたと理由により、道真公一派を排除したという流れです。
一般的にこの噂は本当ではなく、ライバルが権力を一手に担うために道真を陥れたと言われています。
ですが、道真が主導していた訳ではないが、その企て自体があったことを道真公が認めている文章もあるようです。
ちなみに、懇意にしていた宇多上皇は、これを阻止しようと動きますが上手く行かなかったそうです。
結局菅原道真は何をして左遷されたのか?
左遷されるほどの事実として悪い事は何もしていないとのことですね。
よって、結論としては無実の罪で左遷させられたとなりますし、政治に負けたということになります。
ちなみに、このようなことは歴史の中では数多く行われてきたことですが、道真公が神格化するにあたり、重要な内容ですので、書かせて頂きました。
人の心理としては、人を陥れず、誠実でまじめな人が勝って欲しいと願いますが、歴史において、それはある種儚い夢とも言えますよね。
人の上に立つためには、結局は、勝ちか負けになり、正義誠実であったとしても、そこには必ず狡猾性がなければ、勝ち残ることが出来ないのかも知れませんね。
政治はいつの時代も利権が絡みあう難しいというか、腹黒い世界ですね。
藤原時平
少しだけ触れさせて頂きますが、藤原時平も大変優秀な方だそうです。その上、容姿端麗!
なので、女癖が悪かったそうです。
そりゃ、頭も良くて家柄は最高。そして美男子と言えばそうなりそうなものですよね。
また、菅原道真と険悪な関係と思われるかもしれませんが、時平と道真は親の代から付き合いがある関係で、時平自身も道真を評価している文章も残っています。
ですので、時平単独の行動ではないと言われ、道真に嫉妬していた多くの貴族層の総意と言われています。
政治家の足の引っ張りは合いは、どの時代にも当たり前のように存在しています。
勝てば官軍負ければ賊軍が世の常であり、まして、時平が道真を殺害した訳でもないのにここまで悪いイメージとなってしまったのは、少々可哀そうにも思えますね。
ですがご安心ください!
本当にレア中のレアではありますが、きちんとご神体としてお祀りしている神社があります!
藤原時平が祀られている神社
時平をご神体としている神社が限られた地域にあります。
それは・・・
千葉県です!
千葉県の船橋市、八千代市、習志野市に鎮座しています。
船橋市は、
八千代市は
・萱田時平神社
・大和田時平神社
・小板橋時平神社
・萱田下時平神社
習志野市は
レアですね!
神社マニアとしては一度は訪れてみたいですね!
さて、ここからが本番になります。
怨霊信仰→御霊信仰ですね。
簡潔に言いますと、厄災は人々の怨念によるものであり、それをを鎮める(=御霊)ことにより、厄災をなくす、身を守る信仰とのこです。
前記しました通り、道真は志半ばでライバルによって左遷されてしまいました。
左遷されただけでなく、大宰府へ向かう道のりも自費で行くよう命じられ、また、赴任地での給与はなし、従者もなし、政務も禁止と酷い扱いを受けます。
『菅家後集』に収められた「叙意一百韻」にてその道中の嘆きを綴っています。
そして、左遷から2年後に薨去(こうきょ=崩御=亡くなる)なされます。
道真公が怨念を抱いたまま薨去(こうきょ)されたかは不明ですが、道真公が亡くなられた後に、この左遷に関わった人物を含み、宮中では次々と突然、もしくは若くして亡くなる事態に陥ります。
この事実が道真の怨念として認識されるにようになり、御霊信仰から道真が神格化されていきます。
・藤原時平 病死
・藤原菅根 病死
・源光 溺死(当時の右大臣)
・清涼殿落雷事件
清涼殿落雷事件 – Wikipedia
・後醍醐天皇 病死 などなど。
延喜23年(923年)に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨去しました。
これが道真の恨みがなしたものだとされて、4月20日(923年5月13日)に道真は従二位大宰員外師から右大臣に復され、正二位を贈られた。
しかしながら、これで収ままりをみせず、延長8年(930年)には上記しました清涼殿落雷事件が起こります。
朝議中の清涼殿が落雷を受けて、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出ました。その上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御することとなります。これも道真の怨霊が原因とされ、怨霊信仰と結びつき、道真公を神として崇めるために、現在地の北野の地にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺としました。
ここに、道真公が神となる一歩が記されます。
ちなみに、神宮寺とは、日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏道のことです。
その後、一条天皇の時代に「北野天満宮天神」(現在の北野天満宮)の勅号が贈られ、正一位・左大臣・太政大臣と次々に追贈されたことにより、道真公の名誉も回復し、その才能、善行が再びフォーカスされるようになり、より神格化が進み、現在に至った訳です。
たぶんですが、この現象に比例して、藤原時平公の評価は下がっていったことでしょう。
天満宮とは、
・菅原道真公をご神体(主祭神)としてお祀りしている神社
・道真公の怨念を鎮めるために始まった。
・優秀な学者でもあったため、現在では学問の神様として認知されている。
天満宮と言えば牛の像が良く置かれていますよね?
確実にこれ!といった状態にはなく、以下のような説があります。
①、菅原道真公が丑年生まれだから。
②、道真公が死去し、喪の牛車の牛が動かなくなり、その場所に埋葬し、
その場所が後の大宰府天満宮となったから。
③、道真公を神格化した際の神が仏教においては、白牛に乗っているため。
④、道真公を別の神号した場合の神も、唯一牛にまたがっている神であった。
⑤、道真公が牛車をひく牛を大変可愛がったから。
⑥、道真公が流刑に向かう途中で命を狙われた際、白牛に助けられたから。
以下関連記事です。
ご存知かもしれませんが、百人一首には道真公の歌があります。
このたびは 幣も取りあへず手向(たむけ)山 紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに
現代意訳
急な旅であったために神様になにもお供えできませんでしたので、山の紅葉を代わりに捧げますので、神の心の赴くままにお受け取り下さい。
「菅原伝授手習鑑」(すがわらでんじゅてならいかがみ)は、道真公の失脚を中心に描かれた演目です。
歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多いですよね。
ちなみに、この際の藤原時平は「ときひら」ではなく、「しへい」という役名に変換されるそうです。
天満宮は皆様にとっても身近な神社の一つだと思いますので、菅原道真公に想いを寄せて、参拝してみて下さいね!
ちなみに私は、今回の事を書いているうちに藤原時平に興味が湧きました。
果たして、本当に悪人であったのでしょうか?
それは、またの次の機会に。
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